数日で人は、嘲笑う対象を変えていく。

不思議なことに、ぼくらのなにかしらが損なわれて生きていることに気がついたとき、それはまさしく手遅れな状態であるらしい。
少なくとも大人になるということは、なにかしらを損ないながら、失って、削り取られて、あきらめて、我慢していく、そんなちまちまとした作業のただの延長線に立っている状態にいるのだという。

しかし、結局のところ、ぼくらは見つめなければいけないし、話しかけなければいけない(逆に、見つめられて、話しかけられることもあるが)。
たとえそれが、ぼくらを幾分苛立たせる表情や仕草、言葉や間だとしても。

大人になるということは、大人になっていくという経過を生きるということであって、決して結果ではない。
現実的すぎたり、感情を殺しすぎたりするのは大人としての望むべきところではない。単純にユーモアに欠ける。
とはいっても、ぼくらは感情を上下させる生き物であるから、一筋縄ではいかない。

仕事があれば、家族もある。社会があれば、友人もある。結婚があれば、恋愛もある。さまざまな形を通して、あるいは写して、ぼくらは人間の枠を捉えていかなければならない。
個人的な裁量によって。ありきたりな社会性をもって。ほどよいユーモアを散りばめて。
孤独は世界を包んで離さないのだから。

夜中に血が滾っても、冷たく閉ざされても、星は巡り、呼吸を続ける。

思い返してみれば、たった数日の出来事。
あまりに大袈裟で、奇妙な、数日間の前後。