多様な存在云々

大型連休ということを、しばし忘れてみようと試みて、わたし歩いてみる。庭を歩いて、小さな探検を。庭には実に多くの存在が闊歩していて、戸惑うことも多々。たとえば植物、たとえば虫、たとえば鳥、たとえば通りすがりの猫。庭での一歩はあきらかに小さく、わずかなきらめきがわたしの心をほんの数秒で解き放してくれる。
しかし、わたしそれだけでは飽き足らずに、庭のそとへと出てみる。そこには、さらに大きく、さらに多様な存在がわたしを取り囲んでいる。たとえば、なんて切りがない。それほど多種多様の存在たち。存在意義、存在理由、存在云々。庭では出逢えなかったもの、いわゆる人間たちに出逢うのである。押し車と呼ばれるものを、まるで自分自身の一部のようにしながら押して歩く老女。それから、マウンテンバイクと呼ばれる乗り物に乗り、全力で坂道をのぼる少年。たまにすれ違う、軽トラックや原付バイク、と呼ばれるもの。それぞれが乗り物を介して、あるいは自分自身として取り込みながら、存在を定義している。確実に、不確定な意味合いを抱えながら。
まだ、歩いてみる。小さな花が咲いている。そこに小さな虫がとまっている。言葉はかけない。そこに咲いていて、とまっている。わたしは感じて、少し考えるだけ。
まだまだ、歩く。公園がある。ブランコがある。ブランコが少し揺れている。だれかいたのかもしれない。風で揺れているだけだろうか。あれに最後に乗ったのは、いつだったろうか。わたしはさっきより、もう少し感じて、もう少し考える。

さて、こうして歩いていると、頭から語られてしまう。あらゆる存在たちがわたしを囲みながら、わたしはあらゆる存在たちのまわりを、感じ想像し、考え導き出し、わたしは少しずつひとりになっていく。
はて、そうしていると考えがなにかと自分の枠からはみ出さないように、存在たちの存在を脅かさないように、はまりはまっていく。必然だろうか。家から庭へ、庭から庭のそとへ。まだまだ足りていないと考えるのが正しい思考か。
あら、そうこうしている内にカラダは汗ばみ、わたし自身がどんどんそとへと駆けていく。もう一歩そとへ、もう一歩そとへ行けば、わたしは存在たちになっていくのかしら。
ああ、このようにわたしは大型連休へ人間たちとなって踏み込んでいるのかもしれない。
語られるより、語るほうが気持ち楽かもしれないと歩いてみたが、まだまだ放たれて輝くのには少し時間足りず。
続きは海の見える街にでも。夏を迎えるわけだし。