客観視くん

僕のなかの決して許すことのできないひとつとして、愛のない行為がある。
それは人間的な思考、行動を客観的に行なうことであり、自己満足では到達できない深みにある。

というと、なんだか難しい感じになるが、それほど難しいことではない。子供の頃へ帰り、純粋に受け止め、学び、もしそこに自分の間違いや過ちがあれば謝るという種類のことだ。
僕は嫌な物事が目の前に立ち向かってくると(僕は嫌なことはほとんどが立ち向かってくるように感じる)一度自分の枠から越える作業をする。そこには社会的な立場は存在しない。ただのひとりの人間の容れ物があり、その世界の枠組みはまるで宇宙のように深くて暗く、のっぺらとしている。例えれば、自分とは別の自分自身の箱があるようなものだ。箱といっても部屋のように広いのだが。
しかし、その場所に長く居座ると、自分がまた別の自分の枠を越えようとするから、自分を越える時間はそれほど長い必要はない。総合的にみてある程度の時間がその場所に費やすことができればそれでいい。
嫌な物事。というと、大半は怒りが先攻する。悲しい、残念、というのはそのあとに来る。それから、途中で滑稽という感覚が訪れる。ほんの一瞬だけ。
なんでもいいじゃん、あはは。みたいな感覚。その瞬間を上手く利用する。そのときに自分と自分の枠を越えたところとを、俯瞰で眺めることができる。もっと上手くいけば、すべての人、言葉、存在を相対的に客観視することもできる。
ある意味、わくわくする。僕は彼のことを「客観視くん」と呼んでいる。(もっといいネーミングがあったら、またそのとき考えます。)

まあ、つまりどういうことかというと、あらゆる側面を含んだ物事を一方的な解釈や見方によって判断できるのだろうか、ということなのだ。
人の笑みを、愛想ととるか、素直ととるか、おちゃらけととるか、嘘ととるか、ということ。
でも、こういう自分の箱から箱へと、行ったり来たり、越えたり越えなかったり、しているといつのまにか、純粋という部分が見えなくなってきちゃうのは確か。
そのほかにもきっと見えない部分があって、僕はその度にどうだろう、こうかな、と考えているつもりなんだけど、それが世界に収まってくれないときは結構ある。
世界はちょっと言い過ぎたかもしれないけど、どれほど越えてもきっと枠組みは世界だから。
とにかく、困ったことがあったり、悩みを抱えてしまったら、よく眠ることをおすすめするよ。夢は自分の箱を増やしてくれる、素敵な想像だから。あるいは、現実という見方もあるけど、まあいいか。
それでは、いい夢を。

ちなみに、愛というのは他者だけではなく、自分を初めに捉えなければいけないと考えています。そして、自然、他者、自分。
やっぱり難しい問題です。問題にするべきではないのかもしれないけれど。