頭のなかの嫌な感じ

久しぶりな直感に似た嫌な感じ。胃からせせり上がってくるような、酸っぱい液が溢れ出てくるような、なんとも嫌な感じ。
ただ、それは現実とは異なった種類の、所謂直感。言い変えれば、虫の知らせ、風の便り(それは心地よすぎる)、デジャヴ(神がかりすぎ)、妄想(ノーコメント)ただの情報。いろいろあるが、それにしても気持ち悪い。
年月はある程度経過して、ある程度の可能性も置いてけぼり、もしくは忘れていったが、年月も可能性もまだ微かに手元にあり、ばさり、と音をたててなくなったあのときから今にかけて、この机椅子に座り(今名付けた)、見えない自分と向き合うことしばし。
単純明快とはまさにこのこと。変わったことは関係性と物語的なニュアンスでしかない。

随分、ややこしい言い方をしたが、つまり人間は繋がりから遮断を向かえる。そして繋がりをまた再構築し、絡み付いた忘却をひとつの線に見立て、またやがて遮断する。
そうすることの我が身の正当化。矛盾を社会に放り投げる自己防衛。

また、ややこしい言い方をした。
私としては、雨の日には雨を詠み、晴れの日には晴れを愛でて、風の日には風を受け、雪の日には雪を眺める。そして、一日が過ぎ、一日が重なりあって、記憶とともに季節が作られ続いていく。
これがなんとも望ましいひとつの見解ではあるが、ややこしいことに変わりはない。

要するに、直感に似た嫌な感じは私のからだから電波を伝ってどこかの人々に意味を持たずに届いてしまった。これもまた経過の結果。
忘れられないのは顔でも存在でも、過去でも未来でも、自分でも周りでもなく、頭のなかの嫌な感じだけなのだ。

考えすぎることの意味もたまには必要ではないだろうか。と放りなげるが、静けさに返される音はない。
では、なんのためにここまで長々と。
それはつまり自分自身の平和のためだろう。
落ち着け、嫌な感じは眠りまで続いていく。
明日の朝、起き抜けになにを思うか、それが始まりで終いだ。