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平凡な男

 彼はひとりぼうっとしていることを好んだ。特に秀でた知力や体力があるわけでもなかったが、そのことが彼を苦しめ悩ませることはなかった。彼は常に平凡を好んでいた。
 朝に目覚め、昼に活動し、夜になったら眠る。それだけで満ち足りていた。空いた時間に散歩をし、空いた時間に読書をした。料理や掃除を適度にこなし、権力というものに強い抵抗を抱いていた。そのせいで、若い頃学校という場所が嫌になったことはあったが、それを態度として表に出すことはなかった。嫌な気持ちというのは、周りにいる人に伝染することを知っていたし、なにより夜が暗く重たいものになってしまうからだった。そしてそれは大人になっても変わることはなく、むしろその平常心は精度を高めていった。
 
 そんな彼でも、どうしても相容れない相手というのは存在するもので、そのことにしばし悩むことはあった。例えば、腕力が強く、知力がなによりも誇らしいものであり、自分の欲しいものは権力と金を使ってでも手に入れるタイプの人間だ。そのような人間に限って、周りにそのことを強要する。もし、その人に子どもがいれば、その子どもには何事にも一番を求めるだろう。誰よりも早く走らせ、誰よりも優秀な成績をおさめ、一流と呼ばれる学校に行かせるだろう。それは子どものためというより、自分自身のためだろうと容易に想像がつく。そして、その配偶者もその人物と同じような考えになることも想像がついた。良くも悪くも、夫婦というものはそういうものだ。
 とはいえ、彼も自分が平凡ではあるが、いささか面倒な人間であることは自覚していた。誰かと(たとえそれが猫であっても)一緒のベッドに眠ることは信じがたかったし、ふたりで風呂に入ることも信じがたかった。

 ある夜、深煎りのコーヒーにラム酒と砂糖を入れて飲み、古いイギリスの作家の小説を読んでいるとき、一本の電話がかかってきた。相手は彼のことを旅先で出会った者だと名乗った。男の声だった。たしかに、先週旅をしたときバーで親しく話をした人物はいた。綺麗すぎる女と、細いフレームの眼鏡をした堅物そうな男。考えられるのはそのときの男くらいだったが、電話の男の声は、幾分高く聞こえたし、なにより電話番号を教えた覚えはなかった。男は淡々と話を進めた。しかし、その声の裏に怒りを含んでいるのはありありと伺えた。それでも、彼は男と話をする理由はどこにもなかった。自分のことを知っていようが、そのようなことは自分には何ら関係のないことだ。今は夜で、ラム酒入りのコーヒーを飲みながら、本を読んでいる時間なのだから。
 彼は淡々と話をする男の言葉を遮り、すまないのだけれど自分には覚えもないし、関係のないことだ、と伝えた。すると男はケラケラと不気味に嗤い、妙に納得した。すると、男は一呼吸おいて言った「私は男で、あなたも男だ。あの場所でなにがあろうとなかろうと、お酒を飲みながら語らったのです。そしてあの女は私の妻だ。その女をあなたは脳内で抱いた。そのことを私はずっと気にかけていた。そして、私は電話番号を入手して電話をあなたにかけている。私にはあなたにはない権力と財力がある。たとえそのことをあなたが覚えていなかったとしても、または気がついていなかったとしても、私にはそれがわかるのです。あの女は私の女だから。あなたは私の女を直接的ではないにせよ、抱いたのです」
そして、わずかな沈黙のあと、すっかり冷静な口調で男は言った「あ、そうそう、この件のことであなたに金銭を求めるなどという気持ちはありません。ただ、この件のことをあなたに伝えたかっただけなのです。ご気分を害されたのならお詫びします。夜分に失礼しました。」こうして電話は切れた。
 
 謎の男からの意味不明な電話。彼はその一方的過ぎる電話に、恐怖より驚きのほうが勝っていた。彼はソファに深く座り、ラム酒入りのコーヒーを飲み干した。天井を見上げながら、きっとあの男は今頃セミダブルのベッドをふたつ並べた寝室で美しい妻と一緒に寝ているだろう。上質なシルクのパジャマを着て。細いフレームの眼鏡を外し、ベッドサイドのテーブルに置き、明日は何時に起こしてくれ、とか言っているのだろう。そして、それを当たり前の幸福として妻は受け取っているはずだ。
 そこまで想像すると、彼はキッチンへ行き、バーボンをストレートで飲んだ。たしかに権力も財力もないな。と思った。
 そして彼は、電話機を見つめながら、明日電話番号を変えてしまおうと考えていた。