私の名前

名前なんてなんでもいいよ。とは思わないけれど、ときどき、名前が不自然になる。
私の名前は、今呼ばれた名前で正しいのか。本当に自分はその名前を呼ばれ続けてきたのか。実際は名前がひとり歩きしているだけではないのか。
そんなふうにして、名前が私自身からぽっかりと離れていってしまう。
その原因のひとつとして、家族、恋人、友人、同僚、近所のひと、それぞれで呼び名が変わったりするからだろう。当然だけど。
しかも、結婚したら名前が変わったり、同姓同名がいたり、そんなこともある世の中。

いっそのこと「ルパン」とかだったらややこしくないのかも。

とにかく、不自然に感じるときは、じぶんの切り替えがなかなかうまくいかないときで、思考があっちこっちに行ってるときだ。
「ちゃん」や「くん」、そして「さん」。
あらゆる語尾変化があって、ときにカジュアルで、ときにシック。
粋に感じることもあれば、冷たく感じるときもある。
結局、名前は呼んでもらう側がどのような人か、ということに着地するわけだけれど。

名前なんてどうでもいいよ。とは言うものの、名前がなければ私はいないみたいなもの。
そーしゃるめでぃあ、のなかにいるようなものだし。そこからコミュニケーションをとっているわけだし。
だからといって、そのせいで表現の終いとはいかず、逆に繊細にならざるを得ない。要するに、コミュニケーションでしょ。にんげんだもの。言ってみればそういうこと。
あいでんてぃてぃー、がなんなのさ。整理整頓、前倣え。そうやって生きてきたのよ。

なにはともあれ、子どもを呼ぶときは名前がなければ呼べず、病院の受付でも自分の番もわからず、レストランで順番待ちもできない。
ある人の名前が呼ばれるとき、呼んでいる人の深さと甘みが、その名前にほのかな色と香りを与えると、私はそっと知るのだけれど、またふとしたときに名前が散開してしまうのだろうな。
その連続が私に起きて、消えて、落ち着いて、それからまた歩んで、転んで、笑って、気がついたら眠っているように、少しずつ私になっていくんだよ。
私のまわりに漂う言葉のひとつが、私を今包み込んでいくようにして。
ひとつひとつの言葉を吐いて、私に纏うだけ。
名前も言葉のひとつだったりするわけだし。