頭から左手まで

頭痛とともに仲良くやってくるのは、いつも憂鬱な月曜日だった。
いつもといっても、毎回ではない。その頻度が多いという意味だ。
僕は頭痛がくると決まって、ひとつの儀式のように、爪を切り、丁寧に歯を磨き、裸以外のなるべく楽な服装をし、音を消して、深く部屋のなかに入り込む。
そこには、時計の秒針が動く音しか聞こえない。自らの呼吸も、鼓動も、聞こえない。
もっともっと深く入り込む。溶けてなくなりそうなほどに。
やがて、時間軸が薄れてくると頭痛はなくなる。
正確には、溶け込んだのだ。
この部屋の空間を介して、まどろみの中に身を潜めて、徐々に溶けていく氷のように、溶け込んだのだ。
これを成功と呼ぶのか、そして正解と呼ぶのかには少し抵抗と躊躇いがある。しかし、仕方のないことなのだ。
躊躇いがちに目を閉じても、気がついたら朝だった。ということも有り得るわけで。
その逆もまたあるわけで。
僕の左手はまだ細かく震えている。
そこに意味はまだない。