空箱

ペットボトルの水のなかに、人間たちの知性が詰め込まれているとして。
それは硬度で示されるものかもしれず、しかし、そんなくだらない理由を述べるわけにもいかず。ただ単純になるべきだと思うのが、今のところの事実であったりする。

曲がり角を曲がれば、海まで真っ直ぐ続く道に出るなんて、想像だけで十分で。
リュックを背負ったボクの姿を、誰にも見えない視点から眺めると、どこへでも行ける瞬間に立ち会えた気がするのは何故だろうか。この事実を叫ぶべきかどうか。

今思えば、ペットボトルの水なんて、あまりに飛躍した考えに過ぎないが、それでも尚、頭から離れないのはきっとそれがひとつの日常になりつつあるからで。
日常も描いた日常とそうでない日常があって。事実、キャラメルひとつの昼食を思い出し、笑える始末。

選ばれた笑顔の会話はどこか醜い。例えるなら嫉妬のような、だらしのない形容。履き違えた意味の曖昧さを、窮屈にも自分のものにしようと試みるので、より一層事実が湾曲してしまうことは避けられない真実。
真実は、頭のなかが作り上げた、惨めで滑稽な、自分とは無関係の物語。

第一に、ペットボトルも水も、ボクも日常も、すべてが欠けていて、やっと気がついたときには、もうなにもなくなっているのだろうな。
あの部屋に転がる、無関係で無関心の空箱を必死に拾うことに専念すること以外に、自分を埋める場所は瞬間として見当たらないが、愉快な痛みが手を噛むごとに訪れて、口の端を引きつらせる、瞬間瞬間。まさに、やっとの生の瞬間。