想像の欠如

わたしは生活のなかで生きているのであって、決して想像のなかでは生きていない。
当たり前です。当たり前の、当たり前すぎて、半狂乱を忘れながら狂乱してしまうほどに当たり前のこと。
だけど(だけどってどんな言葉ですか?)、毎日をこうして、迎えて、終えようとすると、生活と想像を全く別物にしてしまいたくなってしまう。別物というのは、容れ物を変更する手段であって、AとBは全く違うものです。といった具合ではない。AとBは重なり合う部分が多分にあって、見方によっては同じかもしれない。といった具合がちょうどいい。
ちょうどいい。これがこの物語のテーマである。だけど(また出たね)、毎日がちょうどいい、ということになってしまうと、必然的にちょうどいいがなくなってしまう。何故かって、ちょうどいい日の裏側には(別に隣でもいいんだけれど)ちょうどよくない日があって、ちょうどよくないということは、突き詰めれば生活感が溢れている状態ということになる、気がする。
わたしは生活のなかで生きているのだから、それもちょうどいいでしょ、あんぽんたん。なんて言われても仕方ないこともないんだけれど。
想像の欠けた生活。
はい、想像の欠けた生活っていうのも味気ないよな。だってほら、想像してごらんよ。想像のなかの生活を。
だけど、だけど、たまには想像に浸かるのもちょうどいい。という想像の逃げ道。