猫の通り道

わたしの家の庭は猫の通り道。猫はこちらに気がつくことなく歩く。わたしはテレビを見ながら、猫に気がつく。
庭の草木をわたしは管理していない。たまに、イタリアンパセリやバジルなどのハーブ類をとる程度。水やりも数える程度。
それでも何故か、わたしの庭に入られている感覚になる。それで、わたしは猫をじっと見つめ、窓に穴が空いてしまうほど見つめ、テレビが聞こえなくなるほど見つめ、それを知ってか知らないか、猫は歩く速度を変えずにいなくなる。
わたしの家の庭は猫の通り道なのだ。

とある休日の午後、わたしがコーヒー豆を挽いているときだった。わたしの家に一匹の来客が訪れた。背後に何かの気配を感じたわたしはゆっくりと振り向いた。そこには灰色の猫がいた。わたしが呆気にとられ、立ちすくんでいると、彼は唐突にこう名乗った。
「わたしは猫ではありませんが、見た目は猫です」
彼はわたしと一間ほどの距離をとり、よい姿勢でこちらを見ている。ゆるやかな風がカーテンを揺らしていた。わたしはただ呆然としている。
彼は付け加えるように言った。
「わたしはコーヒーは飲めませんので、おかまいなく」そして、欠伸をひとつした。
また一段と訳がわからなくなった。でもわたしは恐る恐る口を開いた。恐ろしいが、恐ろしがっている余裕もない。
「そ、それで、君は猫ではなく、何になるのかな」わたしの声は震えている。
「猫です」猫の表情は読めない。
「そ、それは、自分の意思とは異なるということかな」
「いいえ、わたしは猫であり、あなたは人間です」
わたしはここで初めて、自分の心臓がドクンドクンと音をたてているのを知った。わたしは自分の気持ちを落ち着かせるために、猫に背を向け、コーヒーを煎れる作業を進めた。猫は何も言葉を発しなかった。そして、わたしの後ろで、おそらくよい姿勢で佇んでいるのだ。一旦目を離すと、振り返るのが怖くてたまらなかった。わたしは自分の脇にじっとりとした汗を感じた。どうして、わたしはこんな目にあわなければいけないのか、考えれば考えるほど、答えは見つからない気がした。コーヒーを煎れる作業は上手くいかなかったが、手を動かさないよりは幾分ましに思えた。しばらくのあいだ、わたしと彼は口を開かず、コーヒーの香りだけがその場所を支配した。そして、コーヒーを煎れ終わる頃、猫は突然口を開いた。
「あの」
わたしは体を震わせて驚いてしまった。お湯を注ぐ手を止めて振り向くと、猫は最初と変わらず、よい姿勢のままこちらを向いていた。
「あの、わたしは何度かあなたの姿を拝見していますが、あなたはわたしのことをご存知ありませんか」
「ええ、知りません。おそらく」わたしの声は幾分震えている。
「わたしと話をするのに不思議はありませんか」
わたしは思わず唾を飲み込んだ。ゴクリと大きな音が鳴った。わたしはなるべく声が上ずらないように答えた。
「も、もちろん、あります。しかし、君はわたしの目の前にこうしているわけだし、不思議だと思っても、現実が追いつきませんので、はい」
彼はじっとわたしの顔を見つめた。彼の目はとても綺麗な青色をしていた。
猫はほんの少し姿勢を整えると、静かな声で言った。
「とても、結構なことです」
すると、猫はわたしに背を向けて玄関から出ていってしまった。わたしはその姿をただただ見つめた。ドアの手前に差し掛かると、猫は立ち止まり、顔だけをこちらに向けて、穏やかな声で言った。
「あなたの家の庭はとても歩きやすいよい庭です。これからもよろしくお願いいたします」
そして、ドアが自然と彼の体ひとつ分ほど開き、ゆっくりとした足取りで出て行ってしまった。
猫がいなくなると、わたしはその場で腰を抜かして座りこんでしまった。
とても綺麗な声だったと、混乱する頭で、思い返していた。

それから、わたしはその日をどのように過ごしたのか、全く覚えていない。猫の一件に勝る出来事はひとつも起きていないが、それから物事がスムーズに進むことが多くなったように思える。例えば、仕事。例えば、結婚。他にもあげれば切りがない。
しかし、今となってはどれもこれも昔のことだ。わたしが猫に話しかけられたのは、やはりおかしなことだったのだ。
自分が猫となった今としては。