携帯事情

「ケータイ」と書くと、今あるスマートフォンではなくて、ボタン式のぱかぱかした携帯電話がしっくりとくる。
ああ、でも「携帯」と書いてもボタン式の気がする。
つまり、「ケータイ」も「携帯」も今はもう「スマホ」に変わってしまったのだ。
僕たちは小型や薄型に進んでいるのかもしれない。自動車も含めて、日本人はその方向にいっているらしいが、その話は置いておく。
そんな僕も携帯電話を四六時中、とまではいかなくても、出掛けるとき、車に乗っているとき、歩いているとき、いつも持ち歩いている。ときおり、なにかを待っているかのように、それを手にしてふと眺めるときがある。
この機械は一体。と思うが、数秒後には携帯電話(スマホ)がぶるぶるして、ぴこぴこする。
僕たちの(僕たち、なんて語弊があるかもしれないが)携帯電話はもうすでに携帯することの枠を超えてしまったのかもしれない。なんて、ある意味滑稽だ。
電話もメールもSNS(これもいまいち)も、その人自身ではなく、その人の持っている携帯電話が受け取っているにすぎない。記号や文字列であったり、数字の並びであったり、自分自身とは遠い部分で受け取っている。僕自身はなにも影響を受けないし、そのまま食事もできる。睡眠だってとれる。何の不都合もない。でも、僕らは自然と、ごくあたりまえに影響される。
確定した未来では決してないが、僕らはいずれ、携帯電話を携帯することすらなくなってしまい、スマートなフォンなんて、昔の言葉に変わってしまうのかもしれない。
ああ、ケータイや携帯のイメージはどこにもなくなってしまうのか、と思うと少し複雑な気分にもなるが。
だって、携帯電話は、ある意味でいうと言葉の置き換えみたいなものだから。
おそらくね、たぶんね、かんかくでね。
わからないよ、機械じゃないし、スマートじゃないし、眠りが近いのだから。