船に乗った。釣りのために乗った。中くらいの大きさの船で、申し込めば誰でも船釣りができるらしいのだが、僕らは船のことも、釣りのことも、知らない。そのなかで、あまりにラフな格好をした僕らが、強者たち(釣りにおいて)のなかに混じっている。大丈夫だろうか、思わず不安が頭をかすめる。

強者たちの横を歩きながら、微かな緊張を感じる。それでいて、船に感動している。そんな僕らを、ある者は訝しい顔つきでちらりと僕を見た。ある者は口の端に自分では表に出ていないと思い込んでいる種類の笑みを浮かべ僕を見た。

出港直前、半袖のTシャツを着た体躯のいい男の人が僕に話しかけてきた。
「釣り、するんだよね」
「一応、するつもりです。一応」
呆れ半分、驚き半分、しかし悪くない笑顔で僕を見て、自分の定位置に戻っていった。
こちらの面持ちというと、釣りのことに対してというよりは、船酔いに対する不安が大きい。というのも、今回同行する知り合いは、前回の船釣りで竿を握ることなく陸に戻ったという。その知り合いは二度目の船。対する僕は一度目の船。不安は高まる。
出航前の情報によると、今日は凪らしいことがわかり、少し落ち着いたが、やはり不安は消えない。それでも、風は気持ちよく、自然に戻っていくような感覚があった。また、見送っている人たちが底抜けに明るい笑みで手を振ってくれていることが嬉しい気持ちにもさせてくれた。

三十分程船を走らせると、最初のポイントに着いた。“べた凪”。
海面から底まで三十メートル、八十メートル。と言われても見当すらつかず。竿を握ることすらままならず、この水のなかに魚とやらがいるらしいが、実感沸かず。
にわか知識の、根がかり、おまつり。これだけは避けたい。強者たちに迷惑だけはかけたくない。船酔いよりも、やはり人のほうが恐ろしい。
竿がしなり、魚が食いつけば、「早く巻け。逃げられるぞ」と捲し立てられる。それもたまらない。もっと言えば、それが原因で強者たちの釣りに影響が出るなら尚更だ。

結局、僕は小ぶりな鯖を一匹釣った。それを見て船員さんは一言。
「餌だな」
ワラサ(イナダ)の餌となっているらしい。
写真を撮ろうと思ったが、船員さんが「俺の釣ったカンパチ持って写真撮ればいいよ」とおっしゃるので、遠慮なくそうした。もう釣ったばかりのカンパチを持って写真を撮ることは、ないだろうから。

結局、強者を含め、僕らはほとんど釣れなかった。凪の日は潮の流れがないために釣れにくいという。逆に潮の流れがあると、よく釣れるが、初心者は船酔いに悩まされるという。結局、初心者である僕らは釣れないのだ。

凪の影響なのか、海面は光沢を放ち、砂漠のような広がりを感じさせた。とはいっても、僕は砂漠に立ったことはない。
スクリューに巻き込まれた、魚をカモメが狙い。人が道具を使って魚を狙う。太陽も風もほとんど感じさせない海の中を魚は泳いでいるのだ。生きるように泳いでいるのだ。あるいは遊ぶように泳いでいるのだ。魚は僕らに見えない。
海面が動きを増し、僕の目を引き込ませようとしている。反射と吸収を繰り返し、僕を欺こうとしている。その度に僕は空を見上げ、雲の高さをいつも以上に感じる。
港に着いた頃にはすっかり暗くなっていた。地上には僕の足がある。海は人知れず動き続ける。
僕は裸にされたのだろうか。いや、見透かされたのだろうか。
海にではない。あらゆる広さの概念のなかに置かれた自分によって。なにもない場所によって。ただそこには広がりに似た感覚を伴う“空間”があって、言いかえればそれは“べた凪”なのだ。